ふと、死について考えていた日に、人が亡くなった話。
From.自宅
まずは、人の死をテーマにこの文章を書くことを許して欲しい。
人の死を自分のネタとして消費するような行為。
死とは、消費されていいような、そんな軽いものではないと思う。
ただ、今日人の死をきっかけに言葉に残すのは、自分の感情において、自分の人生において、とても重いものだと思った。
だから、言葉にする。
今日は珍しく出社をした。
リリース予定だったサービスがまさかの炎上。
今日中のリリースが難しいとわかり、一旦早めに退社。
そして、仕事が終わり、スタバで自分のやりたかった作業をしていた。
自分の勉強兼仕事といった感じのこと。
ひと段落し、ふとTwitterを見た。
その時目に入ったのが、「最悪の結末」というトレンド。
なんのことだろうと思ったが、その上にある「セクシー田中さん」という、もう一つのトレンド。
すごく嫌な予感がした。
結末がなんとなくわかってしまうような気がして、一瞬トレンドを見るのをためらったが、すぐに開いた。
そこにあったのは、「死亡」という文字だ。
【訃報】『セクシー田中さん』作者・芦原妃名子さんが死去 50歳https://t.co/IUCPhnE6Kz
— ライブドアニュース (@livedoornews) 2024年1月29日
日本テレビが報じた。28日から行方不明になっており、29日に栃木県内で死亡しているのが見つかったという。
◆日本テレビコメント… pic.twitter.com/J9K8hqWJQO
ここ数日、Twitterの中で(正確には自分が見ているTwitterの中で)話題になっていた、原作と実写化の話題。
推しの子でも話にあがっていた原作者と実写化企画側のイザコザが、もろ現実になっているなという感想だった。
そして、今日。
作者が亡くなった。
自分はこの作品を読んだことはないし、ドラマも見ていたわけではない。
別にこの作品に対しても、この作者に対しても、何か感情が湧くかというとそうではない。
ただ、うまく言葉にはできないが、頭を殴られたような感覚を覚えた。
実はちょうど今日の昼、死ぬことについて考えていた。
午後出勤で電車を待っていた時、「今ここで誰からか背中を押されて死んだ時、果たしてどう思われるのだろう?」と考えていた。
昨日まで楽しく生きていた人間が、急に死んだ時、みんなはどんなことを思うのだろう。
「心を病んでいた」と思われるのか、「他殺なんじゃないか?」とか思われるのだろうか。
死というものがとても身近であり、そして誰にもわからないものだと、ちょうど昼間に考えていた。
結局、残された人が想像するしかないものなのかもしれない。
このトーンで書くと、自殺を考えているのでは?と思われそうだが、そんなことはない。
ただ、このことを考えていたからこそ、今日の訃報はとてもショックを受けた。
だから、言葉にしないといけないと思った。
いつ自分が死んでもいいように。
自分の親しい人たちが少しでも自分のことを想像できるように。
p.s.
このトーンで書くとガチで心配する人もいる気がするから、改めて。
僕はめちゃくちゃ元気です。
やりたいことが山ほどあるし、友達から彼氏探してる女の子紹介してもらえそうだし、仕事も大変だけど順調だし。
ただ、心配になったら一言、「持ちそう?」とだけ聞いてください。
「大丈夫?」と聞かれると、「大丈夫」と答えてしまいます。
ただ、「持ちそう?」という言葉には「持たない」って答えられます。
これは経験上そうです。
自分がかなり辛かった時期に、かけてもらって涙を流してしまった言葉なので。
学ぶは真似ぶ
時間がないが、改めてちゃんと残しておく必要があると思ってブログを開いた。
あと10分後にはここを出ないといけない。
急いているので、簡単にでもまとめられるようにしよう。
最近、1週間に1冊〜2冊は本を読むようにしている。
活字ばかりの本が苦手なのは今も変わらないが、それでも前より読むスピードは上がった気がする。
あるいは、読み方を変えたことで、量をこなせるようになっているのかもしれない。
最近、ブログを書いている。
今週はこのブログを含めて3つ書いている。
自分の考えを整理するために書いているが、結構いい。
と、最近は自分のために頑張る時間が少しずつ増えてきている。
ダメダメ人間は、他人より頑張るしかないので。
とはいえ、がむしゃらに頑張ればいいってほどの年齢じゃないと思い始めている。
気がついたら24歳。
高校を卒業して6年になり、大学を卒業をして1年が経つ。
年齢を重ねて現実を知ると、昔に比べて、世界をより現実的に見たり、自分自身を現実的に測るようになってきた。
高校生の時みたいに、ワクワクしたことをすぐにやろうとしたり、いつかこんなことをできたらいいなと夢見たりすることはあっても、そこに必ず現実というものが付き纏うようになった。
「宮崎に何かしら貢献したい」
そんな言葉一つをとっても、高校生の時の自分の言葉と、今の自分の言葉とだと、重みや現実性や意味と言ったものが、色々と違ってしまう。
高校生の時なら、「いいね!頑張って!」とただ応援してもらえた。
しかし、今の自分の場合、「じゃあ、君には何ができるの?」と能力や覚悟が問われるようになる気がする。
それ自体は悪いことではないと思う。
むしろ、ちゃんと現実を見て考えられるようになっているだけ、ただの夢想家よりはマシな気がする。
同時に、自分が成長してできることを増やしていかないと、「これがしたいんだよね」と言ったことを軽々しく言えなくなってきた。
だから、今の自分は頑張っている。
そんな、頑張る中で、もっと大切にしたいと思う考え方が出てきた。
それは真似ると言うこと。
新しいことを手に入れようとしたり、できるようになるためには、すでにやっている人やできている人を真似た方が早い。
当たり前だけど。
でも、思い返すと、自分は無意識にその学び方を実践しているはず。
写真の撮り方を勉強したり、編集のやり方を学んだり、そう言ったことはすでにやっているフォトグラファーの取り方や編集の方法を取り入れてきた。
最近はそんな考え方が、少し抜けていた気がする。
0ベースで学ばないといけない、そう思っていた。
学ぶの語源が「学ぶ(まねぶ)」ってのは有名な話だけど、本当にその通りだなと。
と、ここまで書いてきて、そろそろ出ないといけない時間になっていることに気づいた。
これからの学びはもっと真似ること、先人の知を活用すること、そのことを意識して、日々精進したい。
とクソ真面目な話だけど、残しておく。
決断において重要なものは、知識とか経験だけじゃないとぼんやりと思った話。
From. 自宅
今日もブログを書くことができた。
どれだけめんどくさくても書き続けることが地味に大切だったりすると考えると、2日連続で書いているのはとても偉い。
たった100文字でも書くことが大事。
書き続けることで、初めて中身の質にこだわりが生まれると思う。
まずは、自分の考えをちゃんとアウトプットすると言う意味でブログを書く。
最近は意思決定をすることが多い。
会社内、会社外、自分のプライベートな時間、人生設計、いろんなもので意思決定が迫れられる部分が多い。
自分のPJの方向性をどのように進めていくのか、自分の人生でやったほうがいいこと・やらないほうがいいこと。
二者択一を迫られる場面というものが多い。
こういった選択を迫られる状況や、意思決定をすることはとても苦手だ。
できるものならやりたくない。
そう思っていた。
昨日のブログの内容と少し重なるが、自分のことを頭の悪い人間だと思っている。
卑下しているように思われるだろうが、そう思っている。
そんな自分が、何かしら意思を表明し、「決定」をしないといけない。
これがとてつもなく、辛い。
今はまだ、非常な選択は迫られていないが、今後そんな選択をする時が来るかもしれない。
それがとても怖い。
昔の自分であれば、自信を持って意思決定をできるように頭を良くするべきだと考えていた気がする。
いや、今の自分もそうだ。
ただ、結局どれだけ頭が良くなったとしても、どれだけいろんなことを経験したとしても、自分の頭の中に残るのは、「この選択で正しいのか?」という疑問だろう。
そんなことを考えながら色々なことに意思決定をしていたが、繰り返すことで、意思決定の鍵を握るものがぼんやりと見えてきたような気がする。
本当にぼんやりとだが。
責任。
それこそ、意思決定の中で一番重要なものな気がしている。
繰り返し意思決定をしていく中で、この方法が正解と自信を持って言えることはそうそうない。
明らかに違うものは当然あったとしても、正解を引き当てることなんてできるはずがない。
とはいえ、投げやりに意思決定をしたところで何も生まれない。
なら、せめて、その意思決定に対して責任を持つ。
そのスタンスが生まれれば、選択後の思考や行動に変化が生まれ、結果的に良いものをもたらすことが多いのでは?と思うようになった。
当然、頭が良いほうがいい。
正解を引き当てられたほうが良いし、間違いを引かない意思決定ができたほうがいい。
確率が高い方を選ぶ力といったものが本質的には重要なんだろう。
でも、全ては結果でしかわからない。
決断は過程で決まるものではなく、結果のみが示す。
そんな気が、ぼんやりとする。
今、意思決定に不安があるのは当然。
今後も不安が消えることはあまりないだろう。
それでも、覚悟を持って意思を表示して、決断する。
その繰り返しが、きっと自分を強くする。
そう感じる1週間だった。
また明日、たくさん決断するだろう。
1日の決断の回数を増やして、その度に覚悟を決め、責任を持っていく。
厨二病っぽい文章だけど、その気概を忘れずに。
p.s.
読み返すと、勢いで決めればいい、覚悟さえ決めればなんでもいいと思ってそうに見えるな。
それでいうと、決断する前まではちゃんと慎重に調べて考えたほうが圧倒的に良いと思っている。
そして最後、後押しするものが責任を持つ気持ちや覚悟を決めることな気がする。
その後、選択が間違っていたとしても大した問題じゃない。
ほとんどの人にとっての意思決定は対して規模も大きくないし、いくらでもその後の動きで変えられると思う。
仮に間違った結果になったとしても、誠意を見せ、真摯に取り組むことで、次の結果は良くなるとさえ思っている。
そんなことも、一応残しておこう。
頭の悪い自分が嫌いだ。
From. 自宅。
とあるMTGをしながらこの文章を書いている。
基本的にMTGは嫌いだ。
自分の頭の悪さが露呈するから。
(MTGの話聞け←聞いてる)
頭の悪さがどこからくるんだろう。
なんで自分の頭は悪いんだろう。
そう考えているけど、答えは見つからない。
昔から考えすぎる癖があるから、一つのことに対して答えを出すのに、とても時間がかかる。
何かをやろうとした時に、新しいものに作るときに、何か答えを出さないといけない時に、よくわからないことで悩んでしまう。
自分の中で正解がないものを考えることが、本当に昔から苦手だ。
これを言うと矛盾しているように思われるだろうが、世の中で見たときに僕は頭が悪い人間ではないと思う。
文情に行っていたから、ある程度の学力はある。
高校受験も大学受験も乗り切ったし、雑学もそこそこある。
思考力も一定ある。
だから、別に頭が悪いくない、というのは知っている。
それでも、能力なんてものは比較する人や環境によって変わるので、自分自身への評価で言うと、結局頭が悪い。
そして、頭が悪く、結論に辿り着けないから、無駄に悩んでしまう。
そんな自分が嫌いだ。
それでも、昔より良い点でいうと、自分が嫌いであるなら、そんな自分を受け入れて、変えようと思える点だろう。
昔は受け入れられなかったし、変えようとも思わなかった。
その意味ではいい。
とはいえ、嫌いだ。
そんな嫌いな自分を、自分の嫌いな面を変えるためには、結局頑張るしかないのだ。
思考力を鍛えるという、ただひたすらに光の見えないものを探り続ける感じになる。
それでもやるしかない。
自分を変えるには、ある程度頑張らないといけない。
そんな自分の中でのちょっとした決意(と言えるほどたいそうなものではないが)みたいなものをちゃんと残すために、ブログにする。
noteを書いていた時の方が、自分は頑張っていたかもしれない。
2〜3年前、一時期noteを書くことに熱中していた時期がある。
その時どんな記事を書いていたのかnoteを振り返ってみると、結構いろいろな記事が出てきた。
今読み返しても、いい文章を書いているなと思う。
誰に届けたいか、どんな感情を持って欲しいかといったことを考え、、書く内容やストーリーを作り込んでから、書いていた。
そりゃ、いい文章になる気がする。
とはいえ、よくこんなにも文章を書けていたなと。
ギターの弦がすり減っていることから、どんな思考回路を辿ったら、人の感情のすり減りに思考が回るのか。
今の自分の性格的にあんまり想像ができない。
今の自分は、比較的、頭は良くなったと思う。
あくまで、比較的だ。
決して天才ではないし、超絶頭がいい人間になったとかいうつもりはない。
ただ、思考する上での考え方やフレームといったものを身につけたことで、思考にかかるスピードは大幅に短くなり、思考の幅も広がった。
(それでも、自分の中の課題として思考力が上がるくらいには、課題であることに変わりはない。)
ただ、このnoteを見てみると、今の自分は本当に頭を使って考えているのだろうか?とふと思った。
当時の自分の方が、色々なものを吸収し、学び、それを自分の頭を使って考えていたのではないだろうか?
そんなことを思った。
そう考えると、今の自分はずっと停滞している。
今年1年間、何か変わっただろうか?
そんな不安に駆られてしまった。
不安を不安のまま放置していても何も変わらない。
そんなことはわかっているので、対処するしかない。
それも、「自分で考え、行動する」。結局、これに尽きると思う。
それをちゃんとアウトプットする。
そうすることでしか、結局変わらないと思う。
なんか拙い文章にはなるが、一旦自分の思考の整理の意味で、アウトプットをする。
思い立ったが吉日。
今が最速。
今日だけ頑張る。
すぐにやろう。
美的センスと羊文学と気づきと。
昔から色々なものに対する美的センスがないと感じることが多い。
芸術のような高尚なものから、普段の服装のような身近なものまで、自分のセンスに自信がない。
自分が良いと思ったものも、実際には大したことがなかったり、自分が特別好きにならなかったものが、世間一般や有識者の中では優れたものであったり。
自分の感じ方だから、別に他人の目や感じ方など気にする必要はない。
そうわかっていても、気になってしまうことが多々ある。
音楽もその一つ。
僕の中で好きな歌手は何組かいるし、好きな曲はたくさんある。
でも、自分に音楽的センスなんてものはないからこそ、自分の好きな音楽を強く語ることは得意じゃなかったりする。
いや、語ることはあっても、「自分の感じ方が相手と違っていたらどうしよう(それも否定的な考えを持っていたらどうしよう)」と感じて、自信を持って相手に勧められなかったりする。
別に、わかってもらおうとする必要もない。
だけど、わかって欲しいという、現代の若者が抱えがちな悩みに苛まれる。
と、少し前までの自分はそう考えていたものの、実は最近は考え方が変わってきた。
どちらかというと、自分の感じ方に自信を持つようになってきた。
特に、羊文学を好きになり始めた頃から、一気に変わった気もする。
理由は明確で、これまで感じてこなかった音楽の楽しみ方、好きになったきっかけを感じ取ったからだ。
羊文学の一番好きな部分はサウンド。
ギターの音、ベースの音、ドラムの音、そして、ボーカルの音。
現段階で、羊文学の好きなところはサウンドだ。
これまで、歌詞がいい、メロディがいい、歌が上手い、その程度しか感じ取れないと思っていたからこそ、新しい視点に気づけた気がした。
自信を持って、好きと言えるし、おすすめできる。
理由はわからない。
それ以外が何か変わったわけじゃない。
だけど、この自分で気づくということは、もっと重ねていきたいと思った今日この頃。
noteに書けないことをつらつらと書くブログ / 日々面白くしていきたいよねという話。
約3週間ほど前、数億年ぶりにnoteを書いた。
ただ、ありのままの気持ちを適当に書き、定期的に文章を書いていこうかなと思ったものの、結局書いていない。
僕の中でnoteは外向けに「僕の人間性を記号として発信するためのもの」というイメージが強い。
だからこそ、新しいものを書こうとしても、結局考えることが増えて、書けない
めんどくさいのだ。
だからこそ、もう少し書きやすいところで書こうと思ったので、ブログを始めることにした。
とはいえ、今すぐ書きたいことがあるわけではないので、今回は今後の目標でも軽く書くことにしよう。
定期的に、このブログを更新できるくらいには、面白いことや楽しいこと、ワクワクすることを体験していくようにしたい。
社会人になると、当然の如く時間がない。
好きなことをしたり、勉強したり、絶対的な時間が足りない。
気がついたら、日常生活が仕事で埋め尽くされる。
それ自体は楽しかったりするので、悪いことではないものの、人生が同じような仕事ばかりになるのは面白くない。
せっかくなら、自分の人生をもっと楽しく、良いものにしたい。
趣味なら、新しいものを掘り起こしたり、より一つのものを極めてみたり。
仕事なら、自分で新しいものを開拓してみたり、人のワクワクすることに伴走してみたり。
もっと人生を面白くしたい。
このブログはある意味、僕の人生が面白いかどうかを判断するためのブログにしていきたい。
シンプルに、書くのがめんどくさいパターンもあるだろうが、ほぼ毎日続けられると良いなと。